世界で類を見ない永い間、皇室は何故国民の敬愛の的として皇統を繋いできたのかを理解すべく、日本と皇室の歴史を振り返ります。8世紀に編集の古事記・日本書紀では、神武天皇が日向から大和橿原に移り、即位されたのが皇室の始まりとか。これは神話の世界で、採集文化の縄文時代から土地に定着する農耕文化の弥生時代に移る項でしょうか。
有力部族を統一しつつも、皇位を巡る内部の争いの絶えなかった大和王朝は、天武天皇(7世紀)時代に大宝律令(刑法・行政法)を定め、皇室中心の国家体制を確立。税の徴収等国家の骨格ができます。平城京(奈良)から平安京(京都)に遷都した項には、天皇を補佐する藤原一族との関係が微妙となります。大河ドラマ「光る君へ」のように、藤原氏は娘を入内させ、誕生した男子を皇位に就け、外祖父として政治の実権を握る摂関政治への反省が皇統維持ルール確立の理由の一つでしょう。
皇室や公家の下風にあった武家の武力が権威を凌駕するのが、平家・源氏の台頭、鎌倉幕府(12世紀)の成立です。それが決定的になったのが、北条氏から政治の実権奪回を図り失敗した後鳥羽上皇の承久の変(1221)。以後明治維新(1868)までの700年弱、皇室は政治権力として国民に税や苦役を強いる存在でなく、国民の敬愛の的・文化の王、権威の象徴として存続します。
明治政府は急速な近代化を図る必要から、中央集権・富国強兵の為、皇室の御意思とは別に大日本帝国憲法で権力の中心に天皇を位置づけました。現在までの皇室の歩みを思うと、「万世一系の天皇日本国を統治する」が敗戦で終止符を打つまでの約80年間の皇室の存在はむしろ例外でした。
以上から皇室が国民の敬愛の対象として継続したのは、①権力ではなく権威の王として、国民と共にあったこと。②皇統を乱さぬよう、男系(男性天皇のお血筋)の男子が長幼の順序で皇位を継承するルールを護ってきたことで国民に安心感を与えた。③このルールに適う適任者のいない場合、緊急避難的に男系の女性天皇はあっても、女系(お血筋の女性とそうでない男性の子)の男女の天皇は存在しなかった。④政治権力の介入を防ぐ為、生前退位を原則防いだ。⑤天皇・皇族(天皇の可能性ある方)の女性配偶者や女性皇族の配偶者には、過去の反省から細心の注意を払い選考し、皇統の乱れや皇室への影響を防いできたこと等々があったからでしょう。
皇室典範改正は、目先の感情より皇室の歴史を前提に考えるべきでしょう。